講師プロフィール
– Profile –
岩谷翔(いわたにしょう)
・1984年3月12日生まれ
・サクセスボイスマスタートレーナー
・株式会社Roots代表取締役
・教育プログラムディレクター
・徳島文理大学音楽学部声楽コース卒業
声帯を壊し、『二度と歌えない』と言われた状態から科学的アプローチに出会い、奇跡的な回復を見せ声を取り戻す。
その自身の経験から既存の発声理論を科学的な観点で再検証したボイストレーニング「サクセスボイスメソッド」を体系化。
その指導技術はシンガーのみならず、声優、俳優、アナウンサーやセミナー講師、医師に至るまで、声を扱う様々な業界から高い評価を得ている。
「誰でも思い通りに歌えるようになれる」
「歌は才能じゃない!」
というメッセージを伝えるために、
ボイストレーニングだけにとどまらず、音楽教育や音楽ビジネスなど幅広い範囲で活躍。
◆ボイストレーナーとしての実績
- Youtube登録者数4万名突破(2021年2月時点)
- 保有メルマガ登録者数1万5000件(2021年2月時点)
- TBS系列「中居正広の金曜日のスマイルたちへ」にて歌唱指導
- 音楽プロデューサーWatusi (COLDFEET) 氏とのクリエイター向けイベント開催
- 高音発声特化合宿『NextVoice』にて3日間で33名がミックスボイスを獲得(実参加者33名)
- 実指導人数累計1万人(グループレッスン含む)
- トレーナー養成講座SuccessVoiceAcademyにて独立開業者を8名輩出
◆関連書籍
- 『一瞬でキーが2つ上がるボイトレ本』をリットーミュージックより出版 Amazonボーカル書籍部門にて22週連続一位
- デーモン閣下『悪魔的歌唱論』書籍監修
◆歌唱実績
- SEGA「龍が如く0 誓いの場所」挿入歌『I’m Gonna Make Her Mine』歌唱
- カラオケガイドボーカル 300本以上
◆その他・過去の活動
- 地元徳島にてバンド単独ライブの企画・運営(最高500名動員)
- 自主イベント『花音症』(2006年~2008年)、累計動員数5000名
- 2007年04月 はなはるバンドコンテストグランプリ獲得
- 2007年11月 阿南市国民文化祭にて代表アーティストとして3000名の前で歌唱
- 2008年 TokushimaMusicianFessにてJ-walkと共演
- FM徳島『Live in Tokushima』にてメインパーソナリティ
- エフエムびざん『徒花のLIVEALIVE』にてメインパーソナリティ
◆提供しているスクール・サービス
- 科学的ボイストレーニング SuccessVoice
- 最速で確実な結果を出したい人のための会員制ボイストレーニングスクール
- オンラインボイストレーニング講座 SuccessVoiceBootcamp
- オリジナル課題曲を通して、声の課題発見→発声のチェック→トレーニングメニューの作成→トレーニング実践+月一フォローアップで独学でもサクセスボイスを実践できるオンライン教材。
- ボイストレーナー養成講座 SuccessVoice Academy
- プロのトレーナーとして就職・開業するまで全知識を身に着ける実践塾
- オンライン講座サイトプロデュース
- オンライン講座を開催したい個人・企業への企画・サイト構築・運営ノウハウの提供を行う総合プロデュースサービス
- 教室ビジネストータルプロデュース
- 企業向け教育ビジネスシステムの企画・運営及びノウハウ提供サービス
- アーティストブランディングプロデュース
- 世界を目指すアーティストのためのプロデュースサービス(ブランディング及びマーケティング計画立案、人材紹介)
- 楽曲制作(作曲・作詞・編曲)
- 上記サービスに関連するオリジナル楽曲の企画及び制作
- イベント企画運営
- 上記サービスに関連するイベントの企画及び制作
さて、固い自己紹介はここまでです。
ここからは僕がどんな奴なのか
そして、どのようにしてサクセスボイスメソッドが生まれたのかを時系列で書いていきます。
すごく長いので、小説のような感覚で読んで頂けると幸いです。
幼少期 音楽への目覚め
僕は阿波踊りで有名な徳島県徳島市で生まれました。
実家はインテリアショップを経営しており、父親はインテリアデザイナー。
母親も接客や経理を担当していました。
僕が生まれたころ。
店には従業員もおらず、母が接客している最中に、僕を父が背負いながら設計図を書いてる。
そうしてお客さんが両親の仕事で喜んでいる。
そんな『商売』が身近にあるのが日常でした。
そんな僕が音楽に目覚めたのは、小学六年生の頃。
テレビ番組の一芸コーナーに影響され、家にあった母のギターを取り出したのがキッカケです。
ギターに興味を持った僕に母はギターの教則本を買い与えてくれました。
また偶然、当時の担任の先生が学校にギターを持ち込むほどの音楽好きな方で、僕はその先生にギターのドレミなどを習いました。
当時の僕は早生まれのため体格も小さく、遊びも釣りかゲームでそこまで上手いわけではありません。
それほど特技というものはありませんでした。
しかし、徐々にギターが上達していくと同級生から「ギター弾いて」と言われるようになりました。
音楽で人に喜ばれることが嬉しくて、いつしか僕は「音楽で生きていきたい」そう思うようになっていました。
中学生 声変わりがコンプレックスの始まり
僕は中学生になり、音楽にのめり込みました。
エリッククラプトンやレッドツェッペリン、Mr.BIGなど、ロックをどんどん練習していきました。
当時好きだったミュージシャンはギターヴォーカルが多く、その頃から僕は歌にも興味を持ちました。
しかし、当時変声期の僕は無理矢理叫ぶことしかできませんでした。
『どうしてギターのように練習し続けても歌は上達しないのだろう?』
そう考えていました。
ギターは弾けば弾くほど上達していく。
歌は歌えば歌うほど違和感だけが増えていく。
最終的に僕は正しい音程が歌えなくなりました。
そのせいで授業で合唱をしていた時に、隣の子に耳を塞がれたこともありました。
この経験は非常にショックでした。
『自分には歌は無理だろう』
いつしか歌は大きなコンプレックスになっていました。
高校生① 音楽活動と師匠との出会い
歌へのコンプレックスを抱えたまま高校生になった頃。
とあるコンテストに出場するために、僕は音楽ユニットを組みました。
同級生の女子2人が歌い、僕はギターと作曲を担当します。
そのコンテストで僕たちは、初出場ながら入賞することができました。
この入賞をキッカケにラジオや雑誌の取材を受けることになりました。
メディアを通じて、ファンが増えていくという貴重な経験をさせてもらいました。
この3人組ユニットは最終的に他校の文化祭にゲストで呼ばれるほど活動的になります。
実はこの時僕には師匠ができました。
・ウケる楽曲の作り方
・ギターの魅せ方
・アーティスト性の発揮のしかた
・ファンとどう接したらいいのか?
ミュージシャンがどうやって世間にアプローチしていけば結果出せるのか?
師匠はこうした音楽活動の基礎を僕に叩き込んでくれ、それを実践していくと結果が面白いように出ました。
この頃から音楽を仕事にする際にとても必要な感覚
「自分の作りたい物」と「他人にウケる物」のバランス感覚を学べたのは今の自分の仕事に活かされています。
高校生② 声の悩みはいばらのように降り注ぐ
この師匠はバンドでメジャーデビューしていたシンガーで素晴らしい歌声の持ち主でした。
『こんな風に歌えるようになりたい』
そう思い師匠に歌のアドバイスをお願いしました。
しかし、師匠は超天才型の人でした。
歌に関しての教えは、当時の僕には高度過ぎて全く理解できませんでした。
「師匠の知識を理解したい!」
「しかし、圧倒的に理解できない!」
僕はこの問題を解決するために、ボイストレーニング関連の書籍を読み漁るようになっていました。
すると、僕が歌えない最大の課題が判明しました。
僕の声は『出せる音程が極端に少なかった』のです。
実は僕の声は変声期の無理な練習が祟り
歌っても低い声で1オクターブも出ませんでした。
これを克服するために僕は独学で発声を学び続けました。
しかし、1年経っても僕は上達しませんでした。
独学に限界を感じた僕はボイトレ教室に通う事にしました。
しかし、何校通っても僕の声は良くなりませんでした。
むしろ『君は高い声に向かないから止めた方がいい』
そうアドバイスするトレーナーも沢山いました。
結果、大学生になるまで僕は
20名以上のボイストレーナーの指導を受けることになります。
しかし、目に見える上達はしませんでした。
徐々に僕の中で声の専門家であるはずの“ボイストレーナー”という職業への不信感が強くなっていきました。
「普通の教室では学べないのかもしれない。」
「もっと本格的に学ばなければ!」
そう考え、僕は音楽学部のある大学に進学しました。
大学生① 運命のアドバイス
僕はそれまでのロック一辺倒から、うって変わってオペラやミュージカルなど声楽を学びます。
クラシックの世界に入って良かったのは、『明確な基準の追求方法』を学べたことです。
「一音一音を細かく意識しなければいけない」
「たまたま調子よい日に演奏が上手くいくだけではダメ」
「何度も繰り返し、いつでも再現できてやっと実力」
こうしたプロレベルの音楽を演奏するための知識や理解を深めました。
しかし、プロのレベルを知れば知るほど
僕の声のコンプレックスは大きくなっていきました。
何故なら学んだ基準をなかなか達成できないからです。
まず僕は声楽の先生が教えてくれるピッチやリズムがなかなか合いません。
ズレるたびに怒られます。
また僕は先生から本当は高い声が出るテノールだと言われていました。
しかし、一向に高い声で歌えないままでした。
こうしてプロになるためのレベルの高い音楽基準は手に入ったものの、僕は現実をつきつけられる日々が続きました。
そしていつしか『歌の才能はないのか・・・』と諦め始めた頃、転機が訪れます。
ある日、サポートバンドのライブに出演した時のことです。
対バン相手に東京から来たメタルバンドがいたのですが、そのバンドのヴォーカリストが素晴らしいハイトーンを披露していたのです。
僕はその方に「高い声の出し方を教えてください!」とお願いしました。
すると、その方は非常に親身になって僕の話を聞いてくれました。
「お前の気持ちはよくわかった。」
「自分も実は高い声ではずっと悩んできた」
「誰にも教えるつもりはなかったが、お前だけに俺の方法を教えてやる」
その方は僕に特別な方法を教えてくれました。
僕は藁をも掴む思いでその方の言うことを鵜呑みにしました。
大学生② 過酷トレーニングの末
ライブの次の日。
僕はカラオケに駆けこみました。
教えてもらった方法を実践するためです。
やり方はこうです。
「毎日5時間、7日間連続で高い曲を歌い続ける」
「休憩は一切しない」
「途中声が出なくなっても出し続ける」
「喉が痛くても気にせず続ける」
「そうすると喉に超回復が起こり、痛みが引いた後に自然と高い声で歌える」
※絶対に真似しないでください。
僕はやりきる気持ちでいっぱいでした。
まず一日目。
5時間歌いきった後、声は喋ることも難しいほどの状態になりました。
しかし、その方の「決して諦めない事」という言葉を胸に頑張りました。
2日目は目覚めた瞬間から喉が最悪の状態です。
ガラガラ声しか出ません。
しかし、僕はカラオケで歌い始めます。
無理やり声を捻り出します。
途中のどの痛みがスーと引いていく場面がありました。
声自体は出ないのですが、痛みはなくなっていくのです。
『これは上手くいくかもしれない!』
期待が高まり、僕は歌い続けました。
二日目の練習が終わった後。
針を呑み込んだくらいの激しい痛みが喉に残りました。
しかし、僕の胸には確かな上達の確信がありました。
そして、3日目を迎えました。
朝目が覚めると、僕は声を失っていました。
僕は急いで行きつけの病院に駆け込みました。
お医者様からは「歌だけでここまで悪くなった人は初めてだ」と怒られました。
そして、神妙な顔でこう告げられました。
君はもう、元のようには歌えない。
大学生③ 八方塞がり
それから半年以上。
僕は絶望の日々を味わいました。
歌うことはおろか、喋ることすらままなりません。
痛みが引いてきたとしても、出せるのは息だけ。
日常生活に支障が出ました。
以前通っていたボイトレ教室の先生に「どうにかならないか?」と頼むと、
『どうにもならない。君はいつか喉を壊すと思っていた』と突き放されました。
何よりも辛かったのは、その状態で出場した音楽コンテスト。
それまでソロでも必ず入賞していたコンテストで入賞できないどころか
審査員に『ボイトレをやったほうがいい』とアドバイスされました。
散々ボイトレをして満足な結果が出ていません。
僕は審査員のレコード会社の人に「ボイトレでオススメの所はありますか?」と尋ねました。
すると「大阪の先生なら・・・」と、有名なプロも何人も輩出したという有名な先生の教室を紹介されました。
レッスン代も僕が当時通っていた教室の5倍しました。
それでも
「本物のプロなら何か教えてくれるかもしれない」
藁をもつかむ思いで僕はその教室に入りました。
しかし、そこで教えられたのは、今まで他でも言われてきた「喉を力むな」という一点のみでした。
『君はボイトレの前に病院に行った方がいい』
そう言われ半ば匙を投げられたような形で教室を去りました。
大学生④ K先生との出会い
そんな苦悩の連続の中、知り合いから「K先生の所に行ってみたら?」というアドバイスを受けました。
その耳鼻咽喉科のK先生はR&Bを歌う耳鼻咽喉科の医師で、ライブでも何度か顔を合わせたことがある方でした。
しかし、僕はずっとK先生を避けていました。
僕の理想とするような歌を歌う方ではなかったので。(←超失礼汗)
今思えばこういう素直でないところも、僕が失敗した原因だったと思います。
K先生は僕の喉の状態を見て驚いていました。
「こんな状態の声帯はあまり見たことがない」と。
僕は「あぁ、やっぱりもうダメなのか」と思いました。
K先生はこう続けました。
「やみくもに歌い続けても歌は上手くならない」
「歌は筋肉の運動である」
「今の君の状態は骨折した状態で走り続けているようなもの」
「根本的な発声の改善が必要」
今までに聞いたことのない考え方を教えてくれました。
そして「今がどういう状態でも関係ない」と言いました。
「誰でも声を取り戻し、思い通りに歌うことはできる」
歌と言う暗闇に初めて一筋の光が見えた瞬間でした。
大学生⑤ 真の科学的ボイストレーニング
その言葉を信じ、僕はK先生のアドバイス通りにトレーニングを開始しました。
正直K先生のいうことは当時の僕にすると衝撃の内容でした。
「まず1ヶ月は声自体を出さなくていい」
「ひたすら身体を改善する」
「食生活なども見直す」
「歌は一カ月禁止」
今ならなぜこのような事を行ったのか分かります。
僕の声帯は元々ボロボロだったものが、無茶をして完全に壊れてしまっていたのです。
まずは『回復』に全集中しなければいけません。
しかし、当時は理屈を全く理解できず、歌えない日々が苦痛でした。
その1か月後。
僕の声は普通に喋れるほど回復しました。
そして、その半年後。
夢に見た『高い声』も出せるようになりました。
『こんなにも負担がないものなのか!』と感動で泣きそうになりました。
K先生は僕が5年以上抱えていた悩みを半年で解決し、
たった1年で、以前とは比べ物にならない声を僕に与えてくれました。
「誰でも声を取り戻し、思い通りに歌うことはできる」ことを実感し、歌える喜びを噛み締めました。
20歳~24歳 音楽活動の加速
声が出るようになってから、僕の音楽活動は加速しました。
自分のバンドのイベントで500名以上を動員することができたり、
携帯会社を巻き込んで、師匠たちと音楽イベントを開催したり。
国民文化祭の徳島県の代表バンドに選ばれ、3000人の前で演奏することも出来ました。
最終的には地元のラジオ局で番組を持つほどになりました。
音楽活動で成功するにはどうすればいいのか?
そういうアーティストとしての勝ち方を沢山学ぶことが出来ました。
また僕はこの頃、徳島のほぼ全ての軽音サークルに顔を出していました。
僕はサークルの後輩達の相談にのる中で、自分が知っている発声の知識を教えていきました。
こうして、どうすれば効率的に人の声を良くすることができるかを、様々なケースを通して自然と学ぶことが出来ました。
25歳① 音楽クリエイター時代
そうやって音楽活動が進んでいった25才の頃。
転機が訪れます。
僕が本気で取り組んでいたバンドが解散しました。
解散ライブには本当に多くの方が足を運んでくれました。
その解散が決まった数日後。
僕はレーベルの方から「作曲家として活動しないか?」とお誘いを受けました。
僕は悩みましたが、家族からの応援もあり、その誘いを承諾しました。
そして、長年過ごした徳島を離れ、上京しました。
そこからは怒涛の日々が始まります。
この時、初めて本当のプロの世界を目の当たりにしました。
外から見ていると煌びやかなプロの世界は甘くありませんでした。
例えば、プロの作曲家というのは、単に曲を書けば生きていける仕事ではありません。
まず作曲家はコンペという形で自分の曲を他人の曲と競わせ、その中から選ばれなければ一円にもなりません。
元々ファンのために曲を書き続けてきた僕にとって、このコンペというシステムはやっかいでした。
なぜなら自分が格好良いと思う曲ではなく、クライアントの好みに合わせて曲を書き上げなければいけないからです。
時には「ダサい」と感じるような曲も書く事がありました。
この経験から僕は昔師匠が教えてくれた「アーティスト性とビジネスの両立」を強く意識するようになりました。
25歳② はじめてのプロへの指導
そんな中でも何曲かは採用になり、リリースできた曲もありました。
そんなある日、転機が訪れます。
その日僕はある歌手のレコーディングに立ち合っていました。
その方は喉を痛めた状態で録音に臨んでおり、なかなかOKテイクが出ない状態でした。
そこで僕は過去に師匠やK先生から学んだ技術を駆使し、その方にアドバイスを行いました。
実はその方はキャリアが長い方にも関わらず、発声の基礎を知りませんでした。
ですので乾いたスポンジのように僕のアドバイスをその場で吸収し、その日のレコーディングはなんとか終えることができました。
この時、僕は10代の時に学び、当たり前だと思っていた知識が、実はプロの歌手の方も知らない物だということに気付き、驚きました。
26歳 岩谷、音楽やめるってよ
上京して1年。
僕は昼夜問わず曲を書き続けました。
しかし、なかなかコンペは通りません。
その間は何とか貯金だけで食いつなぎました。
そして、ついに貯金が底を尽きました。
『このままでは生きていけない』
そう思い、僕は一度作曲の仕事から身を引き、人生初の就職を決めました。
僕が就職したのは、大手出版流通会社のアプリ開発部門でした。
実はこの仕事は僕が経験したどの仕事よりも楽でした。
アプリの仕組みを考え、企画に落としていく。
そして、下請けの会社に指示していく。
僕がバンド活動の中でイベント開催時に、当たり前のようにやっていたことの延長線上をアプリ開発で行うだけでした。
その間にビジネス塾にも通い、ビジネスの考え方やマーケティングスキルなどを身につけていきました。
その甲斐あってか僕の関わったアプリは、Appストアのランキングで上位に入るようになっていました。
そんな音楽とは全く違う仕事をこなす中で、僕は徐々に仕事について考えるようになりました。
『確かにこの仕事は安定してて楽だ』
『仕事も楽しい』
『しかし、積み上がっていくものが見えない』
『自分はもっと直に喜ぶ人の顔を見たい』
自分の仕事への価値を見つけられないまま上京してから2年が過ぎていきました。
27歳① 死への覚悟、そして目覚め
そんなある日、僕は高熱で倒れました。
食事を取ることさえできなくなり、40度の熱が1週間以上続きました。
僕はウィルス性の肺炎を発症していました。
高熱で思考も定まらない中、僕は自分の死を覚悟しました。
そして、強い後悔が心を覆いました。
『このまま死んだら、何も残せない』と。
何曲書いても、僕の楽曲を覚えている人は誰もいない。
何度演奏しても、僕の演奏を覚えている人もいない。
青春を全て音楽に捧げた結果、僕は狭いワンルームの一室で一人で死んでいくのだ。
そう思い悲しくて泣きました。
そして、朦朧とした頭で別のことも考えました。
『もしこの熱が下がったら何をしたいか?』
そう考えた時に作家時代に僕の指導を喜んでくれた歌手の方の顔が浮かびました。
『そうだ。教育をやろう』
教育ならば自分の技術を残すことができる。
より多くの人を喜ばせることができる。
そう考えたんです。
27歳② 教室の立ち上げ
熱が収まって3か月後。
僕は会社に辞表を提出しました。
当時通っていたビジネス塾の塾長にアイディアを相談したところ、「そのアイディアはすぐにやった方がいい」とアドバイス頂き、一大決心しました。
そして、僕は小さなギター弾き語りの教室を始めました。
実は当初、競合が多いことから、ボイトレ教室をやろうとは考えていなかったんです。
この弾き語り教室は集客が上手くいき、食べていくには十分な月収を得ることができました。
生徒さんは個人差はあれど、指導に根気よく付いてきてくれます。
中にはすぐにストリートデビューし、ファンがつくようになった生徒もいました。
そんな個人教室を1年ほど続けている中で、僕は徐々に生徒さんの隠れた願望に気が付くようになりました。
『まずは弾き語りより先に歌えるようになりたい』
そういう生徒さんが増えてきたんです。
僕は悩みました。
というのが、僕は過去にK先生以外の数々の指導者から裏切られてきた経験から、ボイストレーナーにはなりたくないと考えていました。
しかし実際、生徒の中に他のボイトレ教室に通い、喉を痛めた生徒が現れたのをキッカケに考えを改めました。
過去の自分のような経験をさせたくない。。。
そして地元の師匠たちや尊敬する方に「どうすれば良いか」と相談しました。
すると『お前がちゃんとしたボイトレを世に広めればいい』という答えが返ってきました。
28歳 立ちはだかる業界の問題
僕はまずボイストレーナーとしての経験を積むために、著名なボイストレーナーの教室や大手教室などを渡り歩きました。
すると見えてきたのは、ボイトレ業界全体が抱える沢山の問題でした。
まずほとんどの教室は体系化されたメソッドというものが存在していない。
基本的にトレーナーの感覚頼りの指導が行われている。
またトレーナーの基準は僕が経験してきたプロの世界の基準とはかけ離れていた。
なぜ、こんな状態になっているのか?
まず、ほとんどのトレーナーがアルバイトとして採用されているのが原因の1つです。
ボイストレーナーで僕の思うプロの現場経験を積んだ方は少なかったのです。
求人サイトに「未経験可」と書いてある教室さえあり危機感を感じました。
アメリカで科学的に発声を学んだという著名な方の指導も経験しました。
しかし、最終的には「響き」などの感覚的な共有にとどまってしまいました。
最終的にはプロを何名も輩出してきた日本一のボイストレーナーの方にもお会いしました。
「この人を信じてみよう!」と総額80万円ほどレッスン料を支払いましたが、その方自身が声帯を痛めている事が分かり、その教室を去りました。
こうして様々な教室を調べていった結果、普通の仕事ならまかり通らない事が行われている事実を目にしました。
勿論、出会ってきたトレーナーの中にも素晴らしい方は沢山いました。
しかし、原則的なメソッドを持っているわけではないので、そのトレーナー自身も指導に限界を感じていました。
僕はあらためて、師匠たちからの言葉。
『お前がちゃんとしたボイトレを世に広めればいい』
この言葉の重さを痛感しました。
29歳 科学的メソッドの開発
再現性のある本当の意味での発声メソッドというものがない。
僕はようやくこの事実に気が付きました。
『ボイストレーニング全体を体系化する必要がある』
僕はそう考え、体系化を得意とする考え方の専門家に相談しました。
そして、その方から物事の体系化の手順を学びました。
また肉体学も原則的な情報が必要だと考えました。
そのため、今でも懇意にしていただいている九州共立大学の森部昌広先生に、筋力トレーニングの監修を依頼しました。
その他にも音響の専門家や楽曲の分析を専門とする方など、数多くの専門家の方に協力頂きました。
特に大変だったのはプロのシンガーの声の分析。
こちらは僕の友人のプロシンガーの方に沢山のボイスサンプルを頂きました。
こうして、来る日も来る日も研究と実践を繰り返し、ボイストレーニングの知識をまとめていきました。
正直辛すぎて、やめたいと思ったことも何度もありました。
しかし、自分の身体でメソッドを実験していくと、これまで「もう上達しない」と考えていた声が更に改善されていきました。
さらに実際の生徒さんにもモニターになってもらい、メソッドを実践していきました。
すると、1オクターブも音域が広がる方や、ハッキリとした声を出せるようになる方が続出しました。
こうして、メソッドの開発を初めて2年後。
やっと僕が自身をもってオススメできる再現性のある科学的ボイトレメソッド。
『サクセスボイスメソッド』が誕生しました。
30歳~現在 サクセスボイス
僕は完成したメソッドを世に伝え始めました。
そのメソッドの一部に触れた5分のレッスン動画をYoutubeにアップすると、その動画はいきなり100万再生を記録しました。
メールマガジンの登録者数は一気に2万人を超えました。
憧れのアーティストの書籍にも監修を依頼されるようになりました。
勿論、自分一人では回らせないほど多くの生徒さんが来てくれました。
また企業から講演依頼も頂けるようになりました。
そんな中でもやはり嬉しかったのは、声で悩んでいる方が声を取り戻した時。
一度は自殺まで考えていたその方の歌が素晴らしく、僕は涙が出ました。
『声を通して成功を掴んで欲しい』
そういう意味を込めて、教室名を「サクセスボイス」と改めました。
これは私が優秀なのではなく、声で悩む生徒さんの気持ちに寄り添いながら、確実に前進させたい。
その一心で積み上げて生きた結果だと感じています。
こうした日々を何年も続ける中で『より多くの方にメソッドを伝えたい』と考えるようになりました。
もしあのとき
徳島時代の僕が今のメソッドに出会って、自由に歌うことができ、経済的な自由を作ることが出来たなら。
選べる道の幅はもっと広かったし、色んな人に心配をかけずに済んだはず。
あんな苦しい思いをして、一生懸命教えてくれるボイストレーナーを恨んだりすることもなかったはず。
そういう本当の科学的ボイストレーニングを、今声で悩む人全てに届けたい。
「誰でも思い通りに歌えるようになれる」ということを伝えたい。
こういう思いから僕はこの事業を立ち上げました。
岩谷が大切にしている考え
僕が一番スクール事業で大切にしていること。
それは『確かな基礎能力』を身につけてもらうことです。
確かな基礎能力がないと、一生上手くなり続けるということは難しいからです。
ボイストレーニングの教材には、無料・有料たくさんあります。
ただし、ほとんどが、もともと歌の上手い人が、自分の感覚を伝えるだけのものが多い。
一時期的な偏ったノウハウを教えるので、基礎力が構築されるわけではありません。
だから一瞬は上達を感じても、だんだん時代の流れに対応できなくなります。
つまり、新しい音楽がでてくると手法が通じなくなり、歌えなくなります。
・高音発声特化の教材
・オーディション対策の教材
・お悩み相談型教材
いろんな教材がありますが、どれも一過性のものが多いです。
同様にボイストレーナーの育成講座も一過性のものが多く、協会ビジネスとして講師が搾取されるビジネスモデルが非常に多いです。
酷い協会や教室だと1レッスン料900円しかもらえない所もあります。
これでは講師自身が疲弊し、経験を身につけるための勉強もできません。
これではプロの育成は勿論、普通の人に歌う楽しみを教えることも難しいです。
発声とビジネス。
この2つはやることは違えど、原則的な基礎能力が必要という点においては共通しています。
発声は自分の身体への理解が基礎になります。
そしてビジネスとなるボイストレーナーの養成であれば、ビジネスパーソンとしてのスキルが基礎です。
これらの基礎能力がなければ、結果を出すことは運任せになってしまいます。
またその基礎能力は、生活環境により培われます。
実際、僕自身も商売の家系に生まれ、尊敬しているアーティストから基準を学べる場があり、元々の発声能力が低かったからこそ、現在の能力が身につきました。
そのため、僕が関わる事業では、その”成功する習慣”が身につく環境を目指しています。
1.声による影響力の拡張
2.目標達成技術の習得
3.アーティスト性とビジネスの両立
この全てを兼ね備えることで、より自由な表現者が生まれるのです。
近年、リモートワークの拡大やネット配信環境の整備により、誰もがアーティスト性を発揮しなければいけない時代になりました。
そのため「見た目」や「声」の重要性は非常に高まっています。
ボイストレーニングはタレントやシンガーだけのものではなく、全ての人にとって必要なものとなってきています。
しかし、まだその声の力に本当の意味で気付けている人は少ないです。
ボイトレもインターネットでは情報が錯綜しています。
『誰でも思い通りに歌える』
これが全人類の“常識”になれば、人の影響力は拡張され、確実に次のステップに向かえます。
音楽教育として後世に残せるものを作り、未来への貢献と師匠たちから受けてきた恩を返すために、僕は今でも研鑽の日々を送っています。
そして一緒に学び続けられる仲間の助けになれるよう、過去の自分のように声で絶望した人を生み出さないためにも、こうして情報発信を続けている次第です。
ぜひ共に本当のボイストレーニング学び続けてもらえれば、この上なく幸せですので、お付き合いの程宜しくお願い致します。
サクセスボイスの科学的ボイストレーニング
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